観劇感想
「義」というものは美しくも厄介である。
だれかの「義」は他の誰かにとって必ずしも「義」ではないわけで。
新選組には新選組の義があるし、そして会津にも。もちろん薩摩、長州にも。
尊王だとか攘夷だとか、いやそんな思想ではなく侍として誇り高く生きたい!とか。
それぞれに曲げることのできない義がある。
義を貫くことは一歩間違えば(いや、間違わなくても)他者の義を認めないことでもあるのね。
ふと気になって「義」の反対語ってなんだろうって調べてみました。
不義とか悪とか色々あったけれど、なんだかどうもしっくり来ません。
そのなかで「義」の反対語は「愛」ではないか?
という案があって、あぁ、それはあるかもなぁって思いました。
「義」ゆえに他者を認めず、人の命を奪うことに何の感情も動かない斎藤(朝美絢)や沖田(永久輝せあ)。
「義」ゆえに本心から遠い決断を迫られる故郷の竹馬の友大野(彩風咲奈)。
その中で、ただ一人、ひたすら家族への「愛」をつらぬいていた吉村貫一郎(望海風斗)。
それゆえに彼は異端で、それゆえに彼は愛された。
鳥羽・伏見の戦いでしんがりを務めて新選組を逃した吉村貫一郎の義とは何だったのだろう。
彼のセリフにもあったように官軍に立ち向かう思想的な義はなかったのに。
妻子のためなんとしても生きて南部に帰らなければならなかったのに。
深手を負い、もはや生きてふるさとに帰ることは出来ないとわかっていても、それでも南部藩の屋敷に帰参を願い出る貫一郎。
もう会えないってわかっている。
脱藩し、妻子の命をつなぐ為に人の命を奪い続けた己の罪もわかっている。
だから切腹を言い渡される事もわかっていただろう。いや、庭先で首をはねられたって文句は言えない。
それでも、どんなにか、しづさんに会いたかっただろうか。
どれほど家族の幸せを願っていただろうか。
だから新選組には合流せず南部屋敷に向かっておのれのケジメをつけたかったのかもしれません。
それが南部の武士(もののふ)である彼の「義」なのだから。
けっしてかっこいい役ではないはずの貫一郎をひたすら美しく感じさせてくれただいもん。
義と愛という相反する感情の間で生きるこんなにも難しい役を
時にはもの柔らかく
時には殺気に満ちて
凛々しく切なく温かく大きく演じていて、もうさすがの一言しか出てきません。
岩手山、姫神山、早池峰山、北上川。
そして石割桜。
歌やセリフにちりばめられた懐かしい岩手の地名も美しく、しみじみと心に染みる舞台でした。
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