観劇感想
プログラムの咲ちゃん(彩風咲奈)の扮装写真、全部、物言いたげな憂いの表情をさせているんだよね。
なんだかこの芝居には今の世界情勢に対する谷正純先生の想い、恐れとか哀しみとかが垣間見える気がするの。
宝塚は戦中戦後の苦しい時代をくぐり抜けて今に至る数少ない劇団だ。戦意高揚に利用されたり、劇場が閉鎖、占領されたり。
だからこそ戦争・テロ、そういうことに対する恐怖や痛みは人一倍強く感じるのであろう。
物理学者でもあるネモ船長が科学が戦争に利用される苦しみを訴える場面があったっけ。
それゆえノーチラス号の戦争利用を阻止するため、創り出した人間ごと葬り去るというバットエンディングにいたるわけで。
きっと、谷先生の頭の中ではノーチラス号は核とかミサイル技術とかに置き換えられるんだろうなぁって想像してしまった。
芝居中にむやみやたらに「拉致」って言葉がでてくるのも、なんだか例の北の国の所業を連想させます。
なにもわざわざ拉致しなくったって普通に調査の依頼を受けてあの3人がイギリスの軍艦に乗り込むっていう設定でも構わないのに。というかむしろそのほうがヴェルヌ的だろうに。
ことさらに拉致という言葉を反復させるところに谷先生の意図を感じるのだが。
核兵器廃絶。
その理想はけっして諦めたくはない。しかし美しい理想は時に無力です。
せめて削減。少なくとも不拡散。
それすら現実にはむずかしいことも、わかりたくないけれどわかっています。
たとえすべての核兵器が廃棄されたところで、それを生み出した人類の知見まで廃棄することはできないのだもの。
いつか誰かが再び作り出す恐怖を思えば、どの保有国だって核を手放すことはないだろう。それどころか新たに核を手に入れる国だって生まれているわけで…。
この世から核兵器を完全になくすには、ノーチラス号と乗組員がそうしたように、作り出した人類もろとも滅びるしか道はないのでしょうか?
それが出来るほどの量の核兵器がすでにこの地球上には存在し、恐ろしいことにそれは全くあり得ない未来とは言いきれないのです。
核兵器が地球上にある以上、たとえ持っていたとしてもけっして使ってはならないという「核タブー」を今は信じるほかないのですが、北の国のみならず、倍返しがモットーのビジネスマン出身の大統領にとっても、もはやタブーではなくなったのかもしれないと疑いたくなる今日このごろ。
宝塚の演出家は世の中を動かそうと思って芝居を作っているわけではないでしょう。
でも独裁者などが演劇や映画を利用して大衆を動かすことはよくある話。
演劇や映画のメッセージ性ってけっして侮ることはできないのだ。
世の中には政治的主張の強い芝居を作る人もいるけれど、谷先生の場合とってもシャイ。
ピュアなロマンチストなんだよね。
だから結局、愛と自己犠牲がすべてを救う(いや救って欲しい!のか?)みたいな結末に落ち着いちゃうもんだから、なんだか時代錯誤のヒロイズムに思えてきちゃうんだけど。
ただ、何も出来ないけれど、せめてなにか小さな声をあげたいっていう谷先生の思いが感じられて、だからこれを駄作と一言で片付けてしまうにはちょっと忍びない気がするのです。
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