スカステ視聴記録
新人公演の放送があったので、この機会に本公演の感想を。
映画を舞台に
それも宝塚にするって、難しいのかな~と思った。
もちろんえりたん(壮一帆)は素敵だったし、話は面白いのですが。
宝塚の最大の特徴はとにかく大人数ということ。(バウでなければね)
これ、バウホールだったらもっと舞台化しやすかったと思うんだけどな。
でもなにぶん大劇場作品なので・・・大変だったんだと思います。
人数以外に宝塚が映画や他の演劇とも大きく違う点は何度も見る人や、下級生のファンの人などは必ずしも芝居の本筋を演じる人だけを観ているわけではないこと。
だから、せっかくの大劇場公演に主要な役の数人だけ芝居をしてるような作品はあまり好まれません。
なのでダンス教室にあつまった
個性的な面々の紹介場面の、すぐ後ろに何組ものダンス教室の生徒がいて、みんな一生懸命芝居をしたり踊ったりしているのですが可哀想に、残念ながら、
とても邪魔でした。
彼女たちのせいではなく、これは完全に演出ミス。
まじめなサラリーマン、
チャラいホスト、
不器用な婚約者、
おばちゃん先生。
この個性的なはずの人達の後ろで同じようにレッスンを受ける下級生がゾロゾロいては前にいる人の個性がまったくぼやけてしまいます。
人数を使わなければならないのはわかるけれど登場人物のキャラや行動をしっかり追えるよう観客の視線を誘導するのが演出家の大切な仕事。
どうしても下級生をこの場面に出したいのなら、レッスン生ではなく、たとえば場面転換のブリッジとして
受付で会話する人とか
掃除のバイトの男の子(実はダンス好き)とか
にすればメインの芝居を邪魔をせずにすみます。
何度も観るような人は、あえて、そんなお気に入りの下級生の芝居を観たりできてそれが宝塚の楽しみってなものではないでしょうか。
しかも、この同じ場面、上手のすみっこではエラ先生の個人レッスンが繰り広げられていたのだ。
この踊ることが目的ではないセクハラおやじの個人レッスンをせざるを得ないことによってダンス教師をすることに対するエラ先生の苛立ちとか本当にダンスが好きな人たちが、ちゃんといることを知って気持ちが変化していくこととかはっきり観客に伝えることが出来たはず。
ところが真ん中の芝居に気を取られ、私は全く見ていなかった。
しかもセクハラ親父を演じていたのがザッキー(大澄れい)だったことを後で知ることに。
「ブラック・ジャック」でセリフにぜんぶ「~ごんす」がつくいくつもの役を演じていたのが印象的だったザッキー。きっと芝居が好きで、上手な人だったに違いないのに。
エラ先生のキャラクターをはっきりさせる、それなりに重要な役だったはずなのに。
見逃してしまったじゃないか~~~
たとえば、チャラ男くんがこの親父を見てちょっと男気のあるセリフでもしゃべったりすれば上手の芝居にも気がつくし、チャラ男意外にいいやつじゃないって好感度UPになるのにな。
どうして観客の視線がこのセクハラ親父にも向かうように演出をしてくれなかったのでしょうか?
こんなふうに必要な芝居がまったくの同時進行で、なおかつ一つの視線の中に入らない演出はほかにも。
たとえばこの芝居の最大の見せ場はダンスコンテストの場面だと思うのですが応援の探偵さんや家族は上手・下手の花道に
本舞台にはたくさんのダンサー。
ダンサーも応援の人達も全員が同じ平面に横に広がるような感じで立体感がない。
まぁ、たしかにいっぺんに踊るのがコンテストではあるのだけれども視線の誘導がないから、いったいどのダンサーを観ていいのかわからないまま・・・ついにはまたしてもまったく見ていないタイミングでスカートが破れてしまった。
まぁ映画を見てるから、話はわかってるけどね。
たとえば盆回しを使うなどして、重要な人達がちょうどいいタイミングで前に出てくれば視線を自然に観て欲しいところに集めることが出来るのに。
クイックステップにあわせて盆をまわせばダンスにスピード感も出てくる。
そういうのショーではよく使われる手法ですよね。
まぁこれは素人考えに過ぎないのだけれども・・・
プロの演出家ならばなんとかならなかったのかな~。
違うお芝居が同時進行で進む場合は微妙にセリフに時間差をつけたり、照明を工夫したりしてどちらの芝居も観客がみることが出来るようにしなくては。
とにかく人の配置、構図が下手な演出家さんだな~という印象。
観て欲しい人達、観て欲しい瞬間に視線が集まるように演出するのが演出家の最低限の仕事だと思うんだけどな~
さて、新人公演はCS放送でみたので観て欲しいところはちゃんとカメラさんが捉えてくれていました。
自分の視線が全く違うところを観ていたんだな~ということがよくわかったわ。
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